坂道は上るもの

乃木坂46についてメインに書いていますが、時折、勉強や旅行や法律問題についても書いています。乃木坂46のファンの行動についても統計分析を行っています。

ある日、突然会社がなくなった

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はじめに

  • みなさんは会社に勤められていますか?それとも、経営されていますか?と聞かれると大半の人は会社に勤めていると答えられると思います。僕も単なる会社員です。今、自分の働いている会社が絶対に安泰と言えますか?おそらく、そうではないことがこのコロナ禍でまじまじと見せつけられたと思います。この流れで行けば、稼げる副業みたいな話になるのはよくあるパターンですが、そういった内容ではありません。今回は経営状態のいい会社がいきなり倒産する会社の突然死について書いていこうと思います。

 

 

会社の役目

  • 従業員のために会社があると言われることがありますが、会社は株主(持ち主)のために存在し、利益を還元させる組織です。そのために、従業員を雇い、利益を生み、その利益を会社の所有者である株主に還元させます。株主は会社に対して経営方針などに付いて意見することができます。会社法では会社と株主や取締役との関係について規定がありますが、従業員に関する規定はありません。会社と労働者の関係は労働法に記載がされています。会社(営利企業)は利益を生む組織でしたが、それだけでなく、社会的責任を負うようになりました。会社の社会貢献の会社の大きな目的の1つとなっています。宝塚歌劇団のように、清く正しく美しくが求められているのかもしれません。

 

 

「100年企業=安定している」の罠

  • 100年続いているからこの企業はしっかりしていると思われることがありますし、就活などでもその点をアピールすることが多いです。確かに起業してその企業が1年後に残っている確率が40%で、10年後は10%未満で、20年後は1%を下回っています。長続きしている企業はその中を生き抜いた企業として見ることができます。残った1%未満の会社であることは非常にすごいことです。しかし、残った1%未満の企業だから、これからもずっと安泰と言えるでしょうか?おそらく、そんなことはありません。
  • その企業が生き抜いた理由は必ず存在します。その理由は社会情勢の変化に対応してきたことです。企業が創業当初と同じやり方でやっていれば、確実に倒産してなくなると考えられます。楕円形のヤツのように進化をする必要のない完全体であれば何も問題はありませんが、進化をしないと生き残れない企業が大半だと思います。これまでの100年や50年の社会情勢の変化のスピードとここ10年の社会情勢の変化のスピードでは速さが全く違いますし、そのスピードはこれからもっと上がっていくと思われます。つまり、今までの対応では間に合わないかもしれません。これまではこれでよかったから、これからもこれで大丈夫なんて思っていると自分の首を絞めることに繋がりかねません。

 

会社の突然死って?

  • 会社の突然死は僕が勝手に言っている言葉で、経営基盤や決算資料では全く問題ない企業が倒産することを指します。よく言われる黒字倒産のように現金がなくて、倒産することとも違います。突然死の原因は人員不足です。こ経営状態は非常に良好であるが、人員がおらず、倒産せざるを得ないといけない状態のことです。れは大企業ではなく、中小企業のほうが発生確率は高いと考えています。中小企業では人手不足が慢性化し、社員の若返りが図れなかったり、優秀な人材が確保できなかったりと苦しんでいる企業が多いです。これは今後の日本の雇用を考えていくうえで解決しなければならいない問題です。
  • 突然死に繋がる原因は非常に簡単です。労働条件が大手企業と比較して悪いからです。財政力が圧倒的に違うため大手より給与が低いうえに、労働環境も悪いとなると進んでいきたいとは思えません。中小企業は大手企業に比べて資金面では劣るため高待遇は難しいのは事実です。その企業が赤字に転落したことがなく、常に利益を上げていて、余力のある会社であれば、労働環境の改善は取り組むべき課題です。社内のインフラ整備といったハード対応の資金もねん出できるはずです。それこそ、このコロナ禍で増えた在宅ワークができるような体制を取れば、地元に戻らなければならないという理由での退職や遠方だから働くことができないといった理由で足切りされるリスクも減ります。慢性的な人手不足解消の手助けになるはずです。
  • 何か問題が起こっている会社には理由があります。人手不足も同様です。さらに対処の仕方までわかっていて、対処しないのは怠慢と言わざるを得ません。終身雇用から転職前提の時代になり、今後さらにそれが加速していく中で、キャリアアップを考えると、そういった課題に取り組まない企業に対する魅力はありません。キャリアを無駄にしてしまうと思われてしまうかもしれません。突然死はいきなりやってきますが、そこに繋がるまでの原因の積み重ねです。高血圧、高脂血症、乱れた生活習慣の積み重ねで、人の突然死が訪れるのと同じです。取り組むべき課題に取り組まなければ、会社も同じ道を歩むことになります。

 

 

経営者が突然死のリスクを考えていないわけではない

  • 経営者がそのリスクを考えていないから旧態依然の経営をしているのだと思われるかもしれません、コロナ禍でそのリスクが大きくなったことは誰よりも経営者が感じているはずです。では、なぜ、その対策を講じないのか?と思われるかもしれません。1つは資金面で、もう1つは前例主義です。取り組みたいけど資金面で取り組めない会社は、残念ながら、経営状況が改善しない限り、5-10年以内に倒産してもおかしくありません。ここまでくると合併や取引先への就職あっせんなどをして従業員の生活を確保する手立てを見つける方が賢明でしょう。倒産となると従業員を路頭に回せてしまうことにもなりますので、生き残る手段を考えるべきだと思います。
  • 厄介なのが、前例主義です。今までの方法で、オイルショックバブル崩壊も乗り切ったから今回もうまくいくであろうという考え方です。しかし、コロナ禍で今までのやり方を見直す必要が出てきていますし、オイルショックバブル崩壊を乗り切った企業でも倒産している企業はあります。なぜ、対策を取らないのかというと非常に簡単です。新しい働き方を取り入れるとサボってしまうリスクや転職されるリスクや不正をされるリスクが上がると考えるからだと思います。そのリスクがある原因は何かと言えば、大手企業と比べて劣る給与や待遇です。そこを改善すればそのリスクは大幅に減ります。従来のやり方を踏襲しているといずれ、人は減り、若返りを図ることが難しくなります。
  • さらに、大手企業に比べて脆弱なインフラであれば、従業員を管理できず、そのような行動に走ってしまうといったことを考えてしまいます。現に40-50代の管理職の人がそういったことをしているのではないかと部下に対して思ってしまう割合は少なくありませんでした。彼らは出社して仕事するのが当たり前でそこで変えてしまうと自分のこれまで築いたものを否定してしまうと無意識のうちに考えているのかもしれません。そんな小さなプライドを守るために、多くの物を犠牲にする意味がわかりませんし、管理職は従業員とは言え、会社を回す立場の人です。そんな人たちがそんなものを守るために、そういったことを考えているのであれば、その会社の未来もおのずと見えてきます。近年の会社の目的である社会的責任ということを無視しているとも言えます。
  • 経営状況が悪いわけでもないのに、働き手がいないという理由で廃業せざるを得ないという屈辱的な結果に終わってしまいます。経営者として最悪の結果は倒産です。それを避けるための対応が必要ですが、新しい方法で発生するリスクを恐れていると会社の寿命を縮めるだけです。どこかで改善をしないと延命は非常に難しいと思います。上場企業ですら、変化に対応できる倒産している時代ですから、中小企業はなおさら取り組むべき重要な課題だと思います。
  • 中小企業の大きな課題である人手不足は次期解消されますが、さらに大きな課題であるAIの進化は旧態依然の会社にとっては大きなダメージを与えます。社員の若返りだけでなく、誰もいなくなってしまうことすら考えられます。インフラ整備が整わず、非効率的な業務が多い状態でAIが登場すれば、人よりも機械の方が効率的に業務をやってくれるとなり、さらにその会社自体の意義すらも問われるようになると言えます。実はこの時点でのインフラ整備は来るべきAIの進化に備えることができるとも言えます。ここまで見越した社内整備や投資を行う必要があり、これまでのやり方が通用しない時代はすぐ目の前に来ていると言えます。

 

最後に

  • これを読まれて、一会社員の立場で生意気なと思われた方もいらっしゃるかもしれません。確かにそうでしょうね。しかし、20代の会社員ですら、それらの課題を対処すべきであるとわかってしまうようなことです。実際に対処するとなると難しいことはたくさんあると思われますが、難しいから何もしないは、沈みゆく船で救命ボートも出さずに最期を迎えるのと同じであるとことぐらいすぐにわかります。これからずっと働き続ける身として、潰れるような会社や時代に取り残されるような会社に残りたくはないですし、それで身を亡ぼすようなことをしたくはありません。今後、自分が経営者になるかどうかは、わかりませんが、そういったことを踏まえないと組織に悪影響を及ぼすことを自分にも言い聞かせる必要があると思っています。

 

 

横文字がカッコイイなんて幻想

 

■

 

はじめに

  • テーブル、コンプレックス、サロン、アルバイトなど日常で使い、ビジネスになると、リスケ、フィックス、リストラ、コミットなどもあり、仕事や日常生活で横文字が日本語としてたくさん使われています。ジェネレーション・ギャップという言葉を日本語にすると世代間格差という意味になり、意味としては同じであっても伝わり方が少し違ってくると思います。横文字が今や日本語の一部として使われています。外国語を日本語にせずに横文字にするのは日本語の1つの特徴ではないでしょうか?今回はこの横文字について書いていきます。

 

横文字がカッコイイ!!

  • 皆さん、普段の生活で横文字をどれだけ使っていますか?おそらく、そこまで意識して数えていることはないと思います。僕もどれぐらい使っているかはわかりません。横文字を使っている人がカッコイイなんて思っていませんか?普段から僕の記事を読まれている方であれば、これからどのような流れになるか読めるはずです。その期待を裏切ることはありません。横文字を使うことがかっこいいというのは幻想です。もっと言えば、横文字を多用する人はコミュニケーション能力に問題があるとも考えられます。
  • 「え?でも、バリバリのビジネスマンは横文字をよく使いますよね?そして、その人たちは仕事できますよね?」なんて思っていませんか?以前取り上げた英語の回と同じで、それができるからすごいというわけではありません。今回の横文字に当てはめると、横文字を使っているから仕事ができるというわけではありません。おそらく、表面だけしか見ていないと言えます。
  • では、彼らがなぜ、仕事ができるように見えるかというと知らない言葉が出てきて、難しそうな話をしているように見えるからです。そして、欧米のドラマや映画の影響だと思います。以前の英語話せるからカッコイイ理論とまったく構造は同じです。本当に仕事ができる人で横文字を多用する人は、相手がその横文字が分かる人であることを分かって使っています。逆に横文字が伝わらない相手に対して、彼らは横文字を使うことはないでしょう。そこで横文字を多用しているのであれば、横文字カッコイイ信者だと思います。
  • 横文字を多用している人に限って、英語が話せなかったり、外国へ行ったりした経験が少ないことがあります。そこから来る憧れで横文字を多用していることがあります。憧れは自分自身が抱く分に問題ありませんが、それでコンプレックスを隠そうとするからおかしなことになってしまうと思います。英語が話せないから横文字を多用するのではなく、英語を話す努力をすべきだと思います。横文字を多用することに走るのは筋違いです。そして、彼らが使っている言葉がどこの国の言葉が由来かも知らなければ、和製英語であることも知らないことすら考えられます。ちなみに冒頭の横文字でサロンとアルバイト以外はは英語由来です。サロンはフランス語で、アルバイトはドイツ語ですが、日本語のバイトと意味が違い本業を指します。
  • 横文字を多用することは仕事できる指標でもなければ、かっこよさの指標でもありません。横文字も単なるコミュニケーションツールで相手に伝えるための道具であり、それができなければ無用の長物です。横文字を多用する人はコミュニケーション能力に問題があると言ったのはこういったことが言えるからです。相手に伝わらなければ本当に意味がありません。

 

横文字カッコイイ信者の見分け方

  • 横文字を多用する人はどこの世界にもいます。外国に長く住まれている日本人の方やよく出張に行かれる方は本当によく横文字を使います。しかし、この場合の横文字は日本語的な横文字ではなく、完全に外国語として横文字です。ドイツで知り合った日本人の方から、以前、「ドイツにいるのが長くて、日本語よりドイツ語の方がすぐ出てくる」と仰っていました。日本語を使う機会よりも外国語を使う機会の方が多くなるとどうしてもそうなってしまいます。つまり、横文字を多用すると言っても、日本語的な横文字ではなく、外国語としての横文字なので現地の言葉になります。そのため、日本人がよく使う横文字と大きな差が見られることがあります。日本語を使う機会が少ないと本当に日本語が出てこなくなりますし、アルファベットの方がスラスラ書けるといったこともあります。
  • 横文字カッコイイ信者はどうかというと完全に日本語としての横文字しか使いません。例えばですが、「コミットする」と「コミットメントする」どちらが正しいですか?と言われるとおそらく前者と答える人が多いはずです。日本的には前者ですが、英語的には後者です。英語的にはcommitは動詞なので「する」が付くことなんてありえない話なのです。日本語で言う「頭の頭痛が痛い」状態です。こういった違和感に気付くかどうかも、外国語的か日本語的かと言った感覚になります。
  • そして、彼らは至るとことで横文字を使うので、相手によって使う言葉を変えるといったことをしません。横文字を多用する人でも相手によって使う言葉を変えます。横文字が通じやすいような20-30代に対しては多用してもそれ以上の年齢層になるとあまり使わず、使ったとしても一般的に浸透している横文字に限定すると思います。しかし、カッコイイ信者はそんなことはお構いなしです。使っている自分がカッコイイという自己陶酔の感覚に陥っているのだと思います。
  • 過労で休養された都知事の小池さんは横文字を多用します。小池さんはエジプトに留学されていた経験があるから横文字を多用していると言われることがあります。小池さんの使わっている横文字は英語由来のもので、エジプトの公用語アラビア語です。僕のさっきの理論から言えば、アラビア語の横文字が出るはずですが、ほとんどそういった言葉は出ません。エジプトは親米国家でもあり、英語も通じますしが、英語よりアラビア語の方が一般的です。僕の勝手な考えですが、小池さんは横文字カッコイイ信者か、横文字カッコイイ信者を取り込もうとしているのかどちらかだと思います。パフォーマンスがお好きな方であることがよくわかると思います。
  • それに対して、皇后陛下は元々外交官でいらっしゃり、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語を話されます。即位のときに外国からの使節団が来日した際に通訳なしで離れていました。そして、小池さんのように横文字を多用されることはありません。留学経験者よりも外交官として働かれていた方のほうが、外国語に触れる機会は多いですが、皇后陛下はそのようなことはされません。言い方を変えると皇后陛下は横文字を多用してとしても伝わりにくいと思われ、よく使われている言葉でお話しされているのだと思います。パフォーマンスとしての言葉ではなく伝える物としての言葉を使われていると思います。

 

最後に

  • 横文字を使うことが悪いことでも、いいことでもありません。伝える相手によって、使う言葉を変えればいいだけの話です。相手に伝えることまでがコミュニケーションであって、自分が発して終わりではありません。横文字カッコイイ信者はすべて自分の中で完結しています。相手のいないコミュニケーションは存在しません。自分で完結しているのであれば、単なる独り言です。言葉は相手に伝えるのが一番の目的です。わけのわからない横文字を多用して、結局自分で何を言っているかわからなくなってしまうのです。そうならないために、伝わる言葉で相手に伝えるのが一番ですね。

どこであれ相手はいる

 

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はじめに

ここ数年、インターネットを通じて様々なサービスが提供され、インターネットなしではもう生活ができなくなってきています。その中でもSNSを活用する機会が増加していると思います。何かの宣伝をしたり、自分の意見を主張したりと様々な用途で使われております。そんな僕も使っております。SNSを通じて思うことは、インターネットでのコミュニケーションが難しいということと大の大人でもそういったコミュニケーションができていないことが多いのではないかということです。今回はそういったことをサラッと書いていこうと思います。

 

それ、返事に困るんですよ

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Twitterで何かをつぶやくといいねであったり、リツーイトであったり、リプライ(以後、リプ)が来ます。短い文章なのでチャット感覚で不特定多数の人とコミュニケーションを取ることができ、今まで以上に様々な人とコミュニケーションが取れるようになりました。しかし、その反面、よくわからないようなリプも存在します。ツイートをする時点でコミュニケーションは発生せず、単なる発信であり、見るか見ないかはフォロワーさんの自由ですが、リプは違います。リプはそのことについてコメント(返事)をしているので、最低限のコミュニケーションが発生します。これを分かっていない人がたまにいるんですよ。残念なことに。「そういうリプする自分、かっこいい」と思っているのかもしれませんが、かっこいどころか人として及第点をたたき出してますよと豪語しているようなものです。現実世界でも苦労をすると思うので治されたほうがいいですよといつも思います。

ある程度、仲良くなってそういうことをするのであれば、いいのですが、素性の知らない人にされてみてください。まあ、怖いですよ(笑)。自分のツイートに対して、いきなり「FF(フォロー・フォロワー)外から失礼します。○○では、それは当たり前のことですよ。」というリプが来てみてください。普通に怖いですし、FF外から来て、それをわざわざ言わなければならないのか?というのが率直な感想です。これを現実世界で考えてみてください。友達と話しているときにいきなり知らない人に同じようなことを言われてみてください。「え?何?こわっ」となるはずです。でも、ネットではそういったことがよくあります。それを言ったところで何になるのかと思ってしまいます。だいたい、こういったリプは自分の方が上だよというマウントが多いです。見ず知らずの人にそんなこと言って何になるのかよくわかりません。

noteなどの記事にコメントに対して、「いつも拝見しております」といったコメントは非常にありがたいのですが、Twitterでそれをされると変な感じになります。実際にあったのは「いつもツイートを見て感心しております。○○については~~」と書かれていました。ひねくれた性格なので、「ラジオ番組のハガキでもないのに、それ言う必要ある?若干、上からなのは無意識?」と思ってしまいます。noteやブログのコメントではそういったことをどんどんしてほしいのですが、Twitterでそれをする必要はないと思うので、無駄だと思ってしまいます。大それた内容であればnoteにするので、そういったことをTwitterでされても、、、というのが正直な気持ちです。丁寧なようで実は丁寧ではないのかもしれません。過ぎたるは猶及ばざるが如しというようにやり過ぎは禁物です。Twitterでのリプで適切なものであっても、noteで不適切なこともありますし、逆もしかりです。Twitterとnoteのような媒体では求められるものが異なるので、そこに合わせたコミュニケーションが必要になると思います。noteでそういったことをされる人はいませんがね(笑)

 

現実世界でコミュニケーションが取れない!?

 

ネットの世界でコミュニケーションがうまく取れない人は現実世界でもコミュニケーションが取れず人間関係をうまく構築することができないと思います。しかし、ネットの世界でコミュニケーションが取れて、現実世界でのコミュニケーションが苦手という人は現実世界でも問題なくコミュニケーションが取れると思います。その違いは非常に簡単で相手がいることを理解しているかどうかです。ネットの世界で浮いているような人は現実世界でも浮きます。それは相手のことを考えずに、「自分が、自分が」となっているからです。それに対してネットの世界でコミュニケーションは取れるが、現実世界では苦手という人は人見知りであったり、慣れていないだけであったり、克服すれば問題はないと思います。相手のことを考えている時点でコミュニケーションは成立しています。実際のコミュニケーションが苦手という人は少しずつ慣れていくことで解消されると思います。

 

最後に

現実世界のコミュニケーションとインターネットのコミュニケーションがまったく違うものと思われていることがありますが、それは間違いです。どちらも相手がいることなので、相手がいる以上、相手に伝えることを考えなければなりません。世界は違えど、求められるものは同じなのです。ネットでマウントを取るような人は現実世界で誰も認めてくれないと勝手に思い込み、それをネットで晴らしているだけだと思います。それであれば、現実世界で認められる努力をすればいいだけの話ですが、そういった努力をせずに周りのせいに自分の居場所を常に求め続けます。残念ながら、そんな人はどこへ行っても居場所はありません。ネットでのコミュニケーションが現実世界の延長であることについて、教えてこなかった我々、大人にも責任があると思います。ネットは現実世界に代わる新しい空間ですが、それを動かすのは人間で、コミュニケーションを取るのも人間です。なので、基本的なコミュニケーションについては何も変わらないのです。ネットの功罪は非常に大きなものであり、一番理解しないといけない我々、大人がそれを理解していないのかもしれません。

入管法改正は本当にひどいの?

 

 

はじめに

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  • 外国へ行くと必ず外国人専用の入国審査ゲートに通されます。入国審査時に何をしに来たのか、どれぐらい滞在するのか聞かれると思います。そこでしどろもどろしながら答えると怪しまれることもあります。入国審査というだけあって、その国に入国していいかどうかを審査されています。たいていの場合、日本人であれば、入国審査で引っかかることはありません。ビザのいる国でビザを忘れてしまったり、入国に必要な手続きを怠ったりすると入国拒否されるので行こうとしている国の入国条件を事前に確認しましょう。コロナが明けたときに羽を伸ばして外国へ行きたいですね。今回は最近よく取り上げられている入管法改正です。多数のメディアは人道的理由から反対していますが、僕は外国人の権利は制限されるのが当然で、自国民以上に優先される必要がないと思います。こんなことを言うと反対派からは「この差別主義者が」と言われるかもしれません。入管法は自国を守るための法律です。自国民を守るために外国人の権利は制限されます。これは日本人が外国に行った時も同じです。反対派の唱えている人道的理由がいかに的外れであり、入管法の目的について書いていきたいと思います。

 

 

入管法改正の何が問題?

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  • 入管法の正式名称はは出入国管理及び難民認定法です。入管法改正の問題となっているのは、難民申請に回数制限を設けられたことと強制送還の要件と執行の緩和です。これだけ聞けば、人権侵害も甚だしいと思うかもしれません。そんなことはありません。入管法改正の背景には強制送還命令を拒否する外国人や不法滞在者の増加があります。外国人が日本に滞在するにはビザが必要です。その申請したビザの内容以外のことはその国で行うことはできません。学生ビザを取得しているのに働くことはできません(上限額が決められている場合はその限度内なら大丈夫です)。これは日本人が外国に滞在するときも同じです。ビザの期限が切れるとその国を出なければなりません。ビザ切れや滞在許可時と異なる目的で滞在すると、外国人が滞在資格を失うと強制送還されますが、現状、拒否することも可能で、収容施設に入ることになります。さらに、現状の入管法ではテロリストや重大犯罪人であっても、難民申請をすれば強制送還手続きがストップするという仕組みです。つまり、テロリストや重大犯罪人を収容施設であれ、難民申請期間中は日本国内に滞在させることになります。さらに収容施設からの脱走することもあり、不法滞在にもつながります。収容所のキャパシティーの問題や脱走のリスクと言った観点から法改正で強制送還を行いやすくしようとしているのです。
  • 難民申請には、難民であることを示す書類(身分証明書等)が必要です。しかし、紛争下でそのようなものを持って来れずに他国へ難民申請をすることがあり、当初は人道的見地から身分証明書がなくとも難民認定をし、滞在資格を与えていました。難民認定審査の際に入国審査官は身分証明書を持っていない申請者の話を頼りに審査するしかありません。つまり、嘘を隠し通すことも可能なのです。テロリスクとはそういったことを悪用し難民認定を受け、その国でテロ行為を行うのです。ヨーロッパ(特にドイツ)では、難民を受け入れすぎた影響で、治安が悪化しています。本当に難民としてヨーロッパに来ている人もいますが、その中にテロリストが紛れていることもあります。紛れているテロリストがヨーロッパでテロ活動を行い、治安が悪化しました。さらにつまり、入管法改正は安全保障の一部なのです。

 

自国民優先は当然のこと

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  • 国の役割は自国民を守ることが最優先課題で、世界の常識です。日本人は日本国内での権利は十分保障されます。外国人は日本での権利の一部は制限されます。逆に日本人が外国へ行けば、権利は制限されます。これは憲法でも認められています。外国で長期滞在する場合は住所を登録しなければならず、住む場所がなくなれば本国に返されます。実際、僕もドイツで家を失いかけて、強制送還が視野に入りかけたこともあります。外国人が外国で住所を失うことはその国からするとリスクでしかありません。言い方を変えれば何をしでかすかわからないからです。それは外国にいる日本人も同じです。外国人は滞在している国に管理されなければならないのです。なので、外国でのパスポートの携帯が義務付けられているのはそのためです。自国民であれば、自国内で常にパスポートを持ち歩く必要なんてありません。
  • 「人道的見地から難民申請が拒否されれば、強制送還され、本国で命を落とすのは可哀そうだから反対」というのは筋違いです。ヨーロッパで難民を受け入れすぎたせいでテロリストが紛れて、治安が悪化しています。建設的な議論をするのであれば感情論ではなく、どうすれば、紛れたテロリストを見抜けるかといった制度的な話になると思います。すべてを人権問題に置き換えるのは論点のすり替えとしか思えません。
  • 難民申請だけでなく、ビザ申請で日本に在留するだけの理由を示す証拠がなければ拒否されるのは当然のことだと思います。むしろ、難民認定者にテロリストや重大犯罪人が紛れている方が恐ろしいです。自国民を犠牲にしてまで、難民を受け入れるというのはどうも納得できません。外国人の権利も大切ですが、それ以上に自国民の権利を守る方が大切だと国が考えるのは当然のことだと思います。
  • ドイツにいた時も人としての最低限の生活はできていましたが、外国人である以上権利は制限されていましたし、ちょっとした軽微な変更も役所に届出をしなければ、強制送還のリスクはありました。滞在している外国人が信用されていないのではなく、自国民を守るために行っていることなので仕方ないと思います。ドイツで外国人にもっと権利を与えろと思うことはありませんでした。出入国管理は国の安全にかかわることであり、それを感情論でないがしろにするのはいいことではありません。難民を受け入れるべきだという意見に対しては賛成ですが、何もない状態で受け入れたり、申請を拒否したのに日本に留めたりしておくことには反対です。

 

最後に

  • 外国人の権利は制限されて当然と言ってきましたが、人としての権利は絶対制限されてはいけません。外国人だから、日本人以上のいい家に住んではいけないとか、違法な条件で働かされたり、こき使われたりして当然だとは思いませんし、そういったことを絶対に許してはいけません。そういったことを是正したり、取り締まったりするべきだと思います。しかし、日本に滞在する権利であったり、入国する権利が制限されたりすることは当然のことだと思います。前述のように国の一番の役割は自国民を守ることです。自国民を危険にさらしてまで、外国人を受け入れなければならないのかというのが率直な疑問です。紛争地域から来て難民申請をしても、拒否されて強制送還されて、本国で命を落とすことは非常にいたたまれないことです。本当の難民の人たちを救うためにもテロリストが難民として紛れ込まないようにすることが大切になってくると思います。難民申請をしている人の敵は入管法ではなく、難民申請を悪用するテロリストです。

社会人ってそんなに偉いの?

 

はじめに

  • お久しぶりです。ネタがなく、今回は社会人になってから思ったことを書いていきます。「学生はこうだ」とか「だから、社会人は偉いのだ」みたいな意味不明なマウントを取るような内容ではございません。社会人になってからの人間関係について考えるようになり、学生時代は考えもしなかったようなことを考えさせられています。社会人が偉いというのは幻想であることに触れた後に社会人になってから考えさせれた人間関係について書いていきます。

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社会人は本当に偉いのか?

  • 「学生はお金を払って教育を受けている客であって、社会人は自分でお金を稼ぐ人であって、だから社会人は偉いのだ」とよく言われますが、こんなことを言う人の大半はロクな人ではありません。確かに社会人は決められた時間働いてお金を稼ぎます。アルバイトとは異なり、自らの行動が会社に大きな影響を与える責任も伴います。責任の重さは稼ぐお金が一つの指標になります。お金を稼ぐことはその額に見合った責任を伴うことになります。前半の学生と社会人の違いはあっていますが、結論の持って行き方が非常に乱暴です。前の会社ではそれを嫌というほど聞かされましたが、そんなことをして何になるのかとずっと思っていました。社会人が偉いといった幻想が自らのおごり高ぶりを助長される最悪な考え方だと思います。「社会人は偉い」や「働いている人はかっこいい」というのは学生見た社会人像ではないかと思います。つまり、「だから、社会人は偉いのだ」は実は学生的発想であり、社会人になったことが嬉しくてマウントを取りたいだけだと思います。
  • 社会人の話す内容は難しい話が多いように思われるかもしれませんが、それは仕事の時だけで、しかも仕事の時でも長い間でそんな難しい話をしているわけではありません。ひとたび、飲みにでも行けば、大体の話題はおっさんの自慢話や下ネタです。学生時代より話の内容がひどいこともあります。仕事の自慢話や残業しまくっていた自慢は昔悪いことやっていた自慢と同じです。そんな人たちに「社会人が偉いのだ」や「これだから学生は」なんて言われても言われても説得力はありませんし、「あんたらも同じレベルだと」と思われたり、自己満足を楽しんでいる寂しい人と思われたりするでしょう。ただ、本人はかっこいいと思っています。社会人も学生も思考回路は同じで、どちらが偉くて、どちらが劣っているということはありません。学生と社会人は求められるものが違い、置かれている立場が異なるだけです。会社で教育する側の人間がそのことをきっちり理解しておかないと無駄な対立を有無だけで、いいことはありません。上に立つ人間の欲求が満たされるだけで会社にとってもそういった態度がプラスになるとは思えません。
  • 社会人になると学生時代以上にコミュニケーション能力やTPOを弁えた言動が求められるようになりますが、そういったことは学生時代から身に付けることはできますし、社会人のコミュニケーション能力やTPOを弁えた言動は学生の延長であり、別次元のものではないと思います。「社会人が偉い」という考えは本当の意味で学生や社会人、ひいては人間関係を理解していない社会人たちによって生み出された幻想ではないでしょうか。

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最近気づいたこと

  • 社会人になって4年近く経とうとするのですが、社会人と学生の立場的な違いではなく、人間関係的な違いに気付くようになりました。立場的な違いは単なる知識であって、経験から生まれる知恵のようなものではありません。そのため、新入社員研修で立場の違いを教えられ覚えておけば十分だと思います。仕事をしていく中で、おのずとそのことに気付くようになると思います。しかし、人間関係的な違いは社会人になり、少し年齢を重ねないと気づきませんでした。というか考えもしませんでした。中学、高校、大学までは友達はすぐできて、そこまで友達のことについて考えることはあまりなかったかもしれません。
  • 仲良く遊んでいたのに学校を卒業して、喧嘩をしたわけでもないのに連絡を取らなくなったということがあると思います。連絡していなかった友達に連絡をして、返してくれるのが全体の7割でそこから会ってくれるのが、4割でそこからまた連絡を取るようになるのは1-2割ぐらいだと思います。全体の3割は返事すら返ってきません。これはあくまでも僕の感覚ですので、人によって差はあると思います。なぜ、あんだけ仲が良かったのに連絡を取らなくなるのかについて、考えると環境の変化が一番大きいと思います。環境が変わると付き合う人も変わり、考え方も変わっていきます。そうなると昔遊んでいた友達と連絡を取ったり、遊んだりする時間がおのずと少なくなると思います。そうすると昔みたいに連絡を取って遊ぶということが減るはずです。
  • しかし、どんだけ環境が変わろうとも連絡を取り続け、遊ぶ友達は一定数いるはずです。この違いについて考えましたが、何か共通の話題であったり、物理的距離であったりするのではないかと思います。サッカー好きの友達がいれば、その友達とサッカーの話をしたり、試合を観に行ったりすると思います。近くに住んでいれば、遊びに誘うこともあるはずです。たまに出張や旅行で遠くに行くとその近所にいる友達を誘って遊ぶこともあり、物理的な距離が近くなると連絡もしやすくなるのかなと思います。学生時代は物理的距離が非常に近かったので、すぐに声を掛けることができましたが、それが社会人になると異動や結婚で徐々に遠くなってしまうのだと思います。学生時代のように簡単に声を掛けて遊ぶという環境ではないのだと最近、思うようになりました。社会人になると人間関係の維持が難しいことだと気づきましたし、昔と変わらず遊んでくれる人の存在は非常に重要だと気づきました。

 

あの時の言葉

  • 大学を卒業するときにゼミの先生が「俺は卒業しても連絡を取ってくれる人を尊敬している」と言っていました。その当時はその意味が分かりませんでした。連絡を取るなんて当たり前のことですし、そんなことをするだけで尊敬をされるのかと思っていました。最近になってようやくその意味が分かりました。20代後半になると結婚をしたり、子どもができたりすると、独身の僕からすると少し遊びに誘いにくくなり、徐々に連絡を取らなくなってしまいました。そんなときに遊んでくれたり、向こうから誘われたりすることが非常に嬉しいことだと思ってもいませんでした。先生が言っていた言葉の意味が少しわかったような気がしました。
  • さらに社会人になって、連絡を取りにくくなる理由が久しぶりの連絡がマルチ商法の勧誘や金銭の貸し借りの話ということが多くなり、久しぶりに連絡してへんな話を吹っ掛けられるのではないかと思われているのではないかと少し思ってしまうからです。会社を経営している親戚に大学に入る前に「大学でできる友達が人生最後の何の利害関係もなくできる友達」と言われたのが7-8年の時を経てその意味がようやく分かりました。社会人になるとお金が絡んだ関係になり、深入りすることに躊躇してしまいます。ある程度で留めておかなければ厄介なことになりそうと無意識のうちに思っているのだと思います。これは僕自身、治さなければならないところだと思っていますが、昔みたいに純粋に心を開くことがなかなかできません。社会人になると悩みたくないようなことで悩むのが非常にしんどいです。

 

社会人的発想

  • 学生の頃には考えられなかったようなトラブルが社会人には付きまとい、お金が絡んだ人間関係のように社会人はお金に常に縛られているような気がします。それを社内でも社外でも考えてしまいます。稼いでいるお金の多寡に関わらず社会人である以上、人間関係にお金が絡むことが多くなり、それを避けることはできません。お金だけがすべてではないと言いますが、そんな綺麗事だけで生きていけるほど生易しくないと思います。社内であれば、同期がいると入ったころは仲良くできても、出世競争に巻き込まれるとそれまでの関係は一気に崩れ去ります。すべてが過去のことというよりも、すべてがなかったことになるぐらい人は大きく変わります。お金と権力は人を変えてしまう力があります。
  • 社会人になるとお金の威力や企業のブランドの威力を感じます。社会人になれば、自分をいくらでもよく見せることは可能ですが、身にまとっている鎧の評価であって、その人自身の評価ではないともてはやされている時は気づきません。それがすべてなくなった時に自分を見てくれる人はいなかったと気づきます。非常に醜いと思われるかもしれませんが、これが社会人の現実なのかと思い知らされました。僕自身こういった経験はまだありませんが、没落していく人を見て、その怖さを知りました。
  • 社会人の行動原理が損得勘定に基づくようになり、こいつと会うのは意味があるであったり、あいつと会うのは時間の無駄だといったりした基準で考えるようになると思います。それ自体、社会人的な発想で会う人の人間性に着目していないのではないかと思います。限られた時間で人に会うにはある程度絞らないといけないかもしれませんが、損得勘定で動くようになってはいけないのかなと思います。前の会社でよく言われていた「だから、社会人は偉いんだ」といった考えに納得できないのは、選民思想的発想はともかく、損得勘定で動いていることすらも尊いと思っているところがどうも腑に落ちなかったのです。むしろ、そういったことを考えずに行動ができる学生のほうがうらやましいですし、素晴らしいと思います。本当にお金が絡むと汚くなっていくのだと思いました。ただ、お金は必要なものです。
  • お金に縛られないような関係は非常に尊いもので何ものにも代えがたいものではないかと思います。人間関係を学生の間にしっかり築いておく必要がある理由はこの損得勘定抜きにできるからだと思います。学生時代の人付き合いはその人の家柄や所得ではなく、その人の人間性であったり、共通点があったりすることがベースだと思います。本当に人間として簡単に認められるのは学生時代までで、社会人になるとそこにお金が絡んできます。そしてそこに損得勘定が生まれ、健全と言い難いいびつな人間関係が出来上がってしまいます。利益を求めて人間関係を築こうとする人は本当に人として認められることはないでしょうし、まとっている鎧にしか興味がないと思われ、相手にされないようになっていきます。人間関係においては損得勘定抜きで付き合いがなければ本当に寂しい人間になり、誰も相手をしてくれなくなってしまうような気がします。

 

無理したところで、、、

  • よく集まる友達の平均年収が自分の年収であると言われることがあります。価値観が似ている者は社会的地位まで似るという意味だと思います。その状況を打破すべく、新しいコミュニティーに入って、自分の価値観を変えようとする人がいます。そのコミュニティーに属すことで自分もセレブになりたいと思う人も少ないないはずです。しかし、そういった行動をして、そのコミュニティーに長くいることができるのかといった疑問が生じます。そのコミュニティーで背伸びして、いつもの友達とあって愚痴を吐いてであれば、まだましですが、いつもの友達と勝手に距離を置き突っぱねるようなことをすれば、無理しているしんどさが返ってきます。そこで自分を見失うのではないかと思います。
  • これは知り合いで実際にあった話なのですが、自分の価値観を変えようと昔仲良かった友達に連絡を取り、会うようにしていると言っていました。その行動は僕も見習わなければならないことですが、よくよく話を聞いてみると少し違うような気がしました。その友達は昔の友達に会って自分の価値観を変えたいと言っているのですが、なぜ昔仲が良かった友達と連絡を取らなかったのかについても考えていませんし、なぜ、今残っている友達はどうして残っているのかついてあまり考えていませんでした。友達を増やしたいといったことであれば、ここまで考える必要はありませんが、価値観を変えるとなればある程度の分析をしなければ、中途半端に終わってしまいます。さらに悪いことには必ず理由があり、偶然であることはあまりありません。逆にいいことは偶然が重なったということがよくあります。昔の友達と連絡を取らなくなった原因と今残っている友達がいるという結果について分析をしない限り同じことを繰り返します。その友達は昔から同じことを繰り返し、どうしてうまくいかないのだろうとよく嘆いています。傍から見ている人間は案外わかるものなのですがね。

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今の自分はこれまでの結果

  • 今の自分は良くも悪くもなろうとしてなった結果であって、運命に翻弄されたわけではないと思います。どこかでサボったツケが回っていたり、逆に努力した結果が報われたりしたと思います。つまり、今の自分はこれまでの自分の集大成であって、なるべくしてなっているのです。それを社会的に示すのが年収であって、人間的に示すのが残っている友達だと思います。自分の価値観を変えるために今いる友達を切るようなことは愚策としか言えません。友達を切らなければ変えられない価値観は大した価値観でしょうし、蜃気楼のように実在しないのかもしれません。蜃気楼が蜃気楼であると気づかずに追いかけても、蜃気楼はずっと先に見えます。それを掴もうと必死になり、蜃気楼が消えた途端にすべてを失ったことに気付きます。そして、取り返そうとし、また別の蜃気楼を追いかけるようになります。
  • 価値観を変えようとしている人は価値観を変えようとしている自分を誰かに見てほしいだけであって、本気で変える気があるかはよくわかりません。俗に言う「やるやる詐欺」です。価値観を変えるために今までの人間関係を断って、新しい人と付き合うようにするといった行為は今まで遊んだり、誘ってくれたりした友達を裏切る行為になります。トラブルがあって関係を断つようなことがあっても、一方的な理由で切るようなことをしてはいけません。切られた側もたまったもんではありませんし、また関係を修復させてくれと言われても、それに応じるはずもありません。よっぽど心が広くないとそんな要求を受け入れることはしてくれません。その要求を受け入れてくれるのは、申し出ている側に人望があるのではなく、相手の心が広いだけです。そこを見誤っているから同じようなことを繰り返すのだと思います。
  • 本当に自分の価値観を変えようとする人は進んで関係を断つようなことはせずに、今までの関係を維持しながら新しい関係を築くと思います。わざわざ今までの関係を断つ必要がありませんし、人間関係を断ってまで築く価値観は蜃気楼のように存在しないものとわかっているのではないかと思います。今までの関係を維持しつつ新しいものにアップデートしていこうするのが本当に自分の価値観を変えようとしている人だと思います。

 

最後に

  • 今でも連絡を取って遊んでくれる友達は絶対に大事にしなければならないと思います。会ってくれるという少なくとも時間を割くだけの価値があったり、会うだけの魅力があったりするのではないかと思います。さらにその根底にお金や社会的地位が絡んでいなければ、本当にその人は価値のある人と思われているのではないかと思います。特に社会人は学生のように自由に使える時間も限られ、さらに家庭を持つとその時間は大幅に限られます。その限られた時間を自分のために割いてくれるのは非常に嬉しいことですし、無下にしてはならないと思います。僕は社会人になっても、今まで通りに友達ができると思っていましたが、そんなことはなく、社会人になってからできた友達は数えるほどしかいません。社会人になってから友達作りの難しさに気づきました。今でも連絡をくれたり、会ってくれたりする人に対してはこれまで以上に大切にしなければならないと感じています。来年もそういった関係を維持できるように僕自身頑張らなければならないと思います。

外国語を話せれば、何でもできる?

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はじめに

  • 前回はマルチリンガル=万能というイメージは間違っていて、単なる幻想です。外国語が話せるからすごいのではなく、その話している人がいるその場面を切り抜けたことがすごいのです。重要なことは自分の意見を述べたり、ピンチを切り抜けることであり、そのために知識や経験を積みます。単に外国語だけが話せるようになったからと言って大きな意味を持つことはありません。自分の意見を外国語で述べることができて初めて意味を成します。そして、その経験を積むことはは語学力を上げることより難しくハードです。語学力を伸ばす方がはるかに楽です。そんな今回は外国人とコミュニケーションを取る上で重要なことについて書いていきます。

 

 

重要なのは外国語を覚えることじゃない

  • 外国へ行って、外国人と話すときに相手の国のことより自分の国について聞かれることが多いです。そのときに日本のことについて答えられなければ非常に恥ずかしいです。日本では愛国心と言えば、国粋主義者とそしりを受けますが、他の国では愛国心を持つことは危険な思想を持っているというよりも、むしろ当然のことだと思われています。外国語は話せるが、自国のことについて何も知らないとなると彼らは少し冷ややかな目で見られる可能性があります。ましては、自国を毛嫌いするような発言を繰り返していれば、この人のアイデンティティーやプライドはないのかと思われ、距離を置かれるようになります。
  • 逆に外国語が拙くても、自国の知識があれば、彼らから冷遇されることはありません。外国人が日本人に求めているのは彼らの出身国についての知識より日本のことをどれだけ知っているかです。そして、日本に憧れを持つ外国人は非常に多いです。その憧れの日本人が日本のことについて知らなければ、興ざめしてしまいます。もし、憧れの人が中身のない人だったら興ざめしますよね?それと同じです。特に発展途上国から留学に来ているような人であれば、将来その国の将来を担う可能性のある人です。そんな彼らが日本人の価値観を知ってしまえば、日本ではなく別の国を参考にしたり、仲良くしたりします。詭弁の域になってしまうかもしれませんが、回りまわって日本にとってマイナスになってしまうことがあります。語学を身に付けることも重要ですが、彼らのそのイメージを壊さないためにも自国への理解を深める必要があります。

 

国語学部は語学学校ではない

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  • 中学や高校で英語が好きで外国語学部に進学されている方や文学部の外国語系の専攻されている方は多いと思います。これまでボロクソに書いてきたからここでもこれらの学部は無意味だと書くのではないかと思われたのではないでしょうか?その期待を裏切ることになります。これらの学問は外国語を理解するうえで必要です。ただ、進学する側が外国語学部へ行ったら英語が話せるようになるといった幻想は抱かないでほしいです。確かに、多くの外国語学部を持っている大学ではカリキュラムに留学が組み込まれています。
  • しかし、学部側の考えは留学で外国語を話せるようになるだけではなく、その言語の感覚やその言語圏の価値観などを学ぶことを目的としています。その手段としての英語(外国語)なのです。留学先では現地の大学生と一緒に授業を受けます。それはその言語を覚えるためではなく、その先にある言語の概念への理解するためです。単に英語(外国語)を話すのであれば、英会話スクールで十分です。大学まで行って、外国語を勉強するのは話せるようになるだけではなく、話している言語について理解を深めるためです。そこから派生して翻訳であったり、通訳であったりを外国語学部では研究するのです。日本語を英語にしたり、英語を日本語にしたりするときに日本語や英語にない概念が出てくることもあります。以前取り上げた「いただきます」もその1つです。
  • 国語学部は英語を含めた外国語が好きという気持ちだけではなく、その言語に対する探究心が求められます。その気持ちを入学当初はなくて、その気持ちがどこかで芽生えれば、有意義な進学だと思います。それが芽生えずにずっと外国語を話すことだけに固執している人は在学期間を無駄にしていると思います。大学へ進学してまで外国語を勉強するということはそれ相応の気持ちがなければなりません。それは他の学部でも同じです。大学はすぐ使えるようなスキルを身に付ける場所ではありません。そのようなスキルを身に付けるのは専門学校です。大学はあくまでも研究をする場所です。

 

最後に

  • 繰り返しになりますが、外国語は話せるに越したことはありません。外国人と接する機会は今まで以上に増えているのも事実ですし、特にビジネスにおいて日本国内だけで完結することは年々難しくなり、他国との関わりが重要になっています。その時のコミュニケーションツールとして英語は絶対に必要になります。しかし、英語(外国語)だけが話せるだけは無意味です。彼らとコミュニケーションを取る上でも、自分の意見や考えを持っていなければ存在価値はないに等しいです。冒頭の外交官やエリート商社マンは自分の意見を述べ、交渉しています。コミュニケーションを取る上で言葉は重要ですが、それ以上に自分の考えはもっと重要です。言葉は自分の持っている知識や考えを相手に伝える手段です。自分の考えは内面で、言葉は外面です。外面は簡単に取り繕えますが、内面はそう簡単に取り繕うことはできません。外国語で冗談を言い合えるようになれば、上級者と言われるのは相手を笑わすだけのネタを持ち、伝えることができるからです。外国語を流ちょうに話すことに焦点が当てられることが多いですが、この言葉の真意は相手を笑わせるだけのネタを持っていることではないかと思います。外国語ができるからと言って万能ではありません。凡人です。

外国語という幻想

 

 

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はじめに

  • みなさんは英語を話している人を見てどのように思われますか?おそらくかっこいいであったり、素敵であったりと非常にポジティブな印象を持たれていると思います。では、英語(外国語)を話せる人=万能というイメージを持っていませんか?このイメージはR18が霞んでしまうほど、この考え方はよくないものだと思っています。僕も日本語はもちろんですが、英語とドイツ語は話せますが、決して万能ではありませんし、単なる凡人です。むしろ外国語を話せるだけで万能になれるのであれば、非常に楽です。今回は外国語を話す=万能というイメージが単なる幻想であることについて書いていきます。そして、外国語を話す上で重要なことについても触れたいと思います。

 

 

英語を話せる=万能という幻想

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  • 英語を話せる人は何でもできると思われるようになったのでしょうか?それは外交官やエリート商社マンのイメージがあるからだと思います。彼らは言うまでもなく万能のエリートです。彼らは英語を話すこともできる上に優れた交渉能力を持っています。これがどこかのタイミングで合わさってしまい、英語(外国語)を話せる人=万能という幻想が生まれたのではないかと思います。さらに、日本で英語を話せる人はあまり多くなく、話せるだけで、すごいと思ってしまうのもその幻想をより強くしていると考えられます。
  • 僕の知り合いで小さい頃にその人の両親の仕事の都合で外国に住んでいた人がいます。その人は英語が非常に堪能ですが、日本に帰ってきたある日、日本語で表現できないことに気付いたと言っていました。英語での意味はわかるが、それを日本語にすることができないと言っていました。学校の授業で言っていることがよくわからなかったそうです。彼は日本に生まれ、日本人でありながら日本語がわからなかったという事実にショックを受けていました。小学校から中学校までの知識の穴埋めをし、ようやく授業で言っていることがわかるようになったとも言っていました。彼は英語で様々なことを話すためにも日本語での知識を蓄える必要があると言っていました。そして、英語を話せるだけでは何もないともよく言っています。
  • アメリカの小学生は我々より英語を話すことができますが、トランプ大統領について話してくれと言っても、思っているような答えは返って来ないでしょう。同じ質問を英語は話せないが、政治について詳しい人に質問してみてください。思った以上の答えが返ってくると思います。この違いは話せる言葉ではなく、持っている知識量です。ある話題について、母国語で話すことができないことを外国語にすることはできません。それも同じ理由でそれに対する知識や意見を母国で言うことができないからです。外国語は日本語と同じ言語であって、自分の思っていることを相手に伝えるツールであって、そのツールが今まで話すことができなかった分野の知識を与えてくれるものではありません。シンプルですが、この点が見落とされがちです。
  • 日本語以外の言語を話せるに越したことはありませんが、日本語(母国語)教育よりも優先して、外国語の取得をすべきかと言われれば、僕はそれに賛成できません。小さい頃から外国語に触れていると習得が非常に楽という理由で、子どもに英会話スクールに通われる方も多いはずです。外国語を話せることが一種のステータスになっています。僕も小さい頃通わされていましたが、そこで身に付いたことはほとんどなく、実際、英語を不自由なく話せるようになったのは大学生のころです。
  • まずは、母国語であることについて理解したり、自分の意見を言えたりするほうを優先すべきだと思います。これらのバックボーンがなければ、外国へ行っても意味がありません。外国語は話せることは重要ですが、それ以上にあることに対する理解や自分の意見を述べることができなければ、ただ、英語を話すことができるだけの人になってしまいます。大学でTOEICの勉強ばかりして900点台のスコアをたたき出しても、内定がもらえず就活で苦戦している人を見たことがあると思います。それは、英語はできるが、中身がないと判断されてしまっているからです。企業の側からすれば、今は英語ができなくても中身のある人材が欲しいわけです。英語は入社後に頑張って覚えてもらえばいいというわけです。サッカーで言うならば、リフティングは上手いが、試合や練習に必要なことがまったくできないのと同じです。

 

留学で陥る錯覚

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  • 外国語を少し話せるようになった人や大学生によくみられることですが、英語(外国語)を話せれば何でもできると思っている人が非常に多いです。大学になってから、アメリカやオーストラリアに留学へ行って、英語を話せるようになって、自分は万能であるかのように思う人がいます。これは僕の経験上、留学が3か月未満であれば、外国語を話す=万能と思う傾向が強く、3カ月以上だと外国語を話す=万能と思う人は少ないです。僕も半年間ドイツに住んでいたのですが、最初の3か月間は、外国語が日に日に喋るようになります。それは今まで日本語で持っていた知識を外国語に置き換えて話すことができるからです。つまり、今までのストックを消化している状態です。
  • それに対して3か月を過ぎるとそのストックが切れて、外国語で話せなくなってしまいます。これは若ければ若いほど、その限界は早く来ます。前述の外国に住んでいた彼も同様でした。その時に、母国語で理解できていないことや自分の意見を述べることができないことを外国語に置き換えることができないことに気付くからです。そのときに外国語習得について考えされられます。
  • 大学の夏休みを利用したような超短期留学は語学力の向上というより自分が万能のであるという感覚を伸ばすだけで、実際そこまでの成果はあまりないと言えます。超短期留学であっても、日本語を一切使わなかったり、日本人だけで集めることを控えたりして、積極的に外国語に触れようとしている人は別ですが、大半のケースは外国に1か月ほど行って終わりという人が多いです。少々荒い言い方になりますが、1か月ぐらいの留学は単なる気休めでしかありません。むしろ1カ月間、バックパッカーとして外国へ行く方が万能な人に近付けると思います。

 

最後に

  • 今回はマルチリンガル=万能という幻想を壊す内容となりました。実際、英語が話せるから何なのだという場面は数多く存在します。英語が話せることよりもその場面を切り抜ける力の方が重要です。言葉は後からいくらでも補えますが、今まで培ってきた知識や経験はそう簡単に身に付けられるものではありません。単に英語ができるからすごいというのは間違った考えで、その場面を切り抜けたときに使っていた言葉が英語だっただけです。重要なのは知識や経験です。確かに、言葉がなければ、コミュニケーションは取れませんが、関係を深めるには言葉以上に自分の考えなどは非常に重要になります。次回は外国人と話すうえで重要なことについて書いていきます。