坂道は上るもの

乃木坂46についてメインに書いていますが、時折、勉強や旅行や法律問題についても書いています。乃木坂46のファンの行動についても統計分析を行っています。

自滅の刃

 

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はじめに

  • 皆さんは様々なことについて様々な意見を持たれていると思います。政治であったり、スポーツであったり、自らの属している組織などに対して様々な意見を持っていると思います。人と集まった時にその意見をぶつけると思います。そのときに自分の意見が否定されるとあまりいい気分にはならないと思います。自分の中にあるものが傷つけられたと思ってしまうからだと思います。だからといって、その否定してきた相手の考えが納得できないからといって、こいつは俺の意見を理解できるほどの知能がないと、その相手を見下すような行動を取ることは人としておかしいと思うはずです。そんな今回は自らを「知性派」と名乗る人たちはどうしてそのように自分と反対の立場を取る人を見下すようなことをするのかについて書いていこうと思います。

 

 

自分たちの意見=知性的、反対意見=非知性的という侮蔑

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  • どんなことであっても自分なりの意見を持つことは非常に重要です。自分の意見が封じられてしまうようなことが合ってはいけません。そして、あることに対して意見が分かれるのは当然だと思います。むしろ全員同じの方が気持ち悪いです。以前、議論について取り上げたときに議論をするときは論者への攻撃をしてはいけないという話をしました。議論はお互いの一定以上の倫理観の上に成り立っています。しかし、議論をする前に自分と反対の立場を取る人は頭が悪いと見下すようなことも起こっています。これはどのような組織でも起こり、それが政治のような堅苦しい内容になれば、その傾向はより強くなります。不思議なことに自らを「知性派」と名乗る人たちにその手の人が多いです。例えば、あることに反対している集団が賛成している集団を見て、「頭が悪い」などと罵詈雑言を言ったり、レッテルを貼ったりします。これはそもそも議論が成り立ちません。議論のルールを守ろうとせずに相手に自分のルールを押し付けようとしています。サッカーの試合で「サッカーみたいな野蛮なスポーツではなく、野球のルールを適用しろ」と言っているに等しいです。なんとも身勝手な行動です。サッカーにはサッカーのルール、野球には野球のルールがあって、その種目のルールに従うのが当然のことですが、守れない大人が多いです。
  • 賛成反対の同じ土俵ではなく、反対=賢い、賛成=バカという構図で、反対派が無知蒙昧な賛成派に教育することで賢い人間になれるという構図になっています。左派にその傾向が多く見られますが、右派でも同様の傾向はあります。議論では互いに対等であるのに対して、今回のケースはすでに対等でないという構図になっています。これは自称・知性派がもたらす紛れもない選民思想です。このような態度の人たちに教えられるのはあまりいい気分がしませんし、彼らは自分たちの意見への同意を得るために手段を選ばずあの手この手でやってきます。彼らは自分と意見の異なる人間を徹底的につぶそうとします。自称・平和を愛する人は自分と意見の異なる人に暴言を吐きます。その人が愛しているのは平和ではなく、自分の意見です。もっと言えば、平和を愛している自分を愛している究極のナルシストです。ここまでくると、ヒステリックさを感じてしまいます。身体的苦痛は与えなくとも精神的苦痛を与える拷問のようなことをします。左派のメディアはそのようなことを平気で公共の電波を使って行います。「自分たちの意見は完璧でそれに反対する奴らは頭がおかしい」といった考えです。では、自称・知性派に代表されるような選民思想が生まれたのでしょうか?

 

他者への攻撃=自信のなさ

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  • 彼ら(自らは正義軍、前述の自称・知性派)はなぜそのような論理を導くのかについて書いていこうと思います。彼らは自らが弾圧されている立場であり、虐げられている人たちの存在を世間一般の人は知らない。だって、世間の人たちに我々の存在はないものとされているため、知る由がないと考えています。そんな世間一般の人たちに我々の存在を知らせなくてはならず、世間の人を啓蒙して一緒に戦おうと思っています。結論から言いますと、世間の人は彼らの存在を知っていますが、彼らに目を向けていないだけです。そして彼らの意見を見て、バカにされている気分になり、共感できないだけです。彼らが言うように誰かに虐げられているのではなく、自分たちで自分たちの首を絞めていることに世間の人は気づいていますが、本人たちはそれを頑なに認めようとはしません。
  • そして彼らの行動はエスカレートし、さらに見向きもされなくなってしまいます。彼らが支持されないのは彼らの行動が原因であって、世間の人が彼らの存在や意見を知らないわけではありません。そして、彼らは支持されないのは我々の考えが高尚過ぎて、世間の人には付いてこられないと思うようになり、自我を保とうとします。人が離れていった時点で、離れた原因が自らにあることを認めたくないがために、他に原因を作ろうとします。これは一種の防衛本能です。学校にいた、すごく上から目線の高圧的な先生は自分に自信がなく、自らの地位をキープするために生徒を踏み台にして、自分の地位を守っているのと同じです。自分を守る一番簡単な方法は相手を貶めることです。自分が何の努力をしなくとも、相手を下げれば勝手に自分が上になったと思うからです。友達の少ない人排他的組織に属している人にこの傾向が見られるのは外部との接触が少なく、独りよがりになってしまったり、周りが全員同じ考え方になったりしているので、他の意見がそこに入ることはないためです。

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  • なぜ、このようなことが起こるのかと言うと、先生の例で触れたように、その人自身の行動や考えに自信がないからです。それはコンプレックスによるものであったり、幼少期のトラウマであったりと様々で、歴史上の大虐殺を行ったスターリンヒトラーのような独裁者もこのような傾向はあったそうです。自分の地位が脅かされないように脅威となる人物や歯向かう人物を何の躊躇もなく虐殺したそうです。それは自分がいつ殺されてもおかしくないと内心で思っているからだと言われています。つまり、自分と反対の立場を取る人たちを見下す心理は自分の立場であったり、自分自身であったりに自信がないことの表れで、その感情が行き過ぎてしまうと大惨事を招きかねません。
  • 自分と反対の立場を取る人は「自分は他人より優れていると他者から思われたい」という承認欲求を満たすために相手を下げます。そして、相手を下げて自分の地位があたかもその人より上であるかのような錯覚に陥り、最終的に自分は他者より優れているという感覚に陥ります。これは違法薬物同様、常習性があり、一時的な快楽をもたらします。このループに一度ハマると簡単に抜け出すことができません。人間一度楽を覚えるとそこから抜け出すのには相当な覚悟と努力が必要だからです。それが自己完結せずに外部にその矛先が向けられたとき、何かに容赦ない攻撃を仕掛けてきます。自信のなさを隠そうとして他者を傷つけて安心感を得ることが一番楽なうえに快楽も大きいです。

 

最後に

  • 議論をするときに賛成反対の意見を持つことは重要で相手を尊重しなければならないのが鉄則ですが、明らかに間違っていると思われる意見であったり、事実と異なることを話していたりすれば、その意見を述べている本人の勉強不足であることを理由に相手に対して助言を与えることができます。相手があることについての知識がなければ、議論は成立しません。それに気づくことは相当な知識がないと気づけません。しかし、これが行き過ぎてしまった結果、「自分たちの意見は素晴らしい。それに反対する奴らは野蛮だ」と思うようになってしまうのです。これは相手の知識の欠如の指摘から自分たちを擁護するツールに無意識のうちにすり替わっています。これが画像であれば、アハ体験です。ある意見への反対も賛成もどちらにも欠点はあります。完璧なものを作ることはできません。その不完全性を理由に自分と反対の立場の人を見下すようなことをしてはいけません。どれほどの輝かしい経歴をお持ちの方でもそのような態度を示すことで、人として間違っていると思われてしまいます。自分で自分のキャリアに傷を付けることになります。相手に向けたはずの刃は相手ではなく自分の急所に突き付けられ、自滅の刃となります。自信のなさを隠すために相手に犠牲を強いるよりも、自信がないことを隠さないでいるほうが数百倍難しいです。自信がないことを認めてさらけ出すことも勇気で、それができる人はかっこいいと思います。僕もそうなりたいなー。