坂道は上るもの

乃木坂46についてメインに書いていますが、時折、勉強や旅行や法律問題についても書いています。乃木坂46のファンの行動についても統計分析を行っています。

正しく議論や批判をできていますか?

 

 

はじめに

  • 今日で第二次世界大戦が終わって75年が経ちました。第二次世界大戦後、日本が他国の戦争に巻き込まれたことはありますが、直接戦争したことはありません。75年間戦争ない時代が続いています。このまま、戦争ない状態が続いてほしいです。今回は戦争や平和について書くのではなく、議論や批判をテーマに書いていこうと思います。終戦記念日の話題になると憲法の話がよくできて、護憲論者が改憲論者のことを「お前のような好戦主義者は人間ではない。さっさっと日本か出ていけ」といった具合に罵倒するようなことがよく見られます。当然ながら、その逆もあります。憲法改正に関しては議論することすら御法度とされています。宗教教義の変更であれば理解できますが、法改正でこのように考えられているのが不思議です。さらに、コロナ騒動で安倍首相や自民党への風当たりが強くなっていますが、その批判している人たちの内容を見ると、批判というより中傷に近いようなものが多くを占めています。中には的を射た批判が見られます。コロナ騒動でより一層、批判と中傷の区別が付いていない人が多くなったように思われます。批判は相手を中傷することではないことを書いていきたいと思います。

 

批判と中傷の区別が付かない

ネットの誹謗中傷のイラスト(男性)

  • Twitterで以前、このブログの内容に関して中傷に近い(意味不明なコメント)と見受けられるコメントがあったとお話ししました。そのコメントは運営側の要望により、現在は削除されています。その内容について示すものはございませんが、その要旨について書いていきます。
  • 秋田出身の女性芸能人について回(『ねねばね』)であるSNSにリンクは貼り付けたときにそのコメントはありました。
  • 「『秋田は通ったことしかない』と書いていて、統計を扱っているように書いているけれどもテキトーだ」「アンケートはバカッター(Twitterユーザーへの侮蔑表現)の意見か。使い物になるはずがない」というものでした。前半部分に関しては確かに指摘の通りで反論する余地もありません。2つ目は明らかな侮蔑の意図が見受けられます。コメントを書いた本人は、その内容に示されているデータは的を射ないデータであるため、それを総意のように書くのはおかしいと言いたかったのではないか読み取れますが、しっかりとした批判の仕方を知らないために批判と中傷の区別の付かないコメントになっているのだと思います。
  • 僕はどのような意見を持とうが自由としたうえで、回答者への侮蔑表現に、そのような表現が犯罪に繋がる危険性を指摘し、今後そのようなコメントをしないように忠告をしました。すると、別の人から「内容からして評論家気取りもたいがいにしろ。人に見られるのであれば、中傷の意図を持ったコメントを受ける覚悟をしろ。なんでも法律に絡めようとするのはよくない風潮だ。仮に訴えても反訴されるだけで勝てる確証でもあるのか」というものでした。このコメントに関しては、批判をしたかったのでしょうが、書いた人の自分の知識をそのまま書いているだけのこめんとになり、内容がかみ合っていません。
  • まず、僕のコメントでは回答者への侮蔑表現を指摘して、ブログの内容について反論したわけではありません。さらに侮蔑的な表現が犯罪(名誉棄損もしくは侮辱)に当てはまることを指摘しているのであって、こちらから事件化するとも言っていませんし、反訴は民事訴訟での話であって、犯罪は刑事訴訟に絡む話で、本来別の話なわけです。知識をひけらかしたいだけの的を射ないコメントであると読み取れます。ちなみにですが、このようなコメントを書き込むのような人は過去にどのようなことを書いているか必ず確認するようにしています。どちらの人も自分との反対意見を持つ人に対して人格否定をしていることがわかりました。因果関係や相関関係については不明ですが、サンプル数を増やすとその傾向についてわかるかもしれません。
  • 人格否定は議論や批判とは関係ありませんが、反対論者に対する人格否定は多く見られます。さらに議論が噛み合わないようなコメントもありました。議論や批判において、論者を尊重する姿勢と読解力が求められます。このどちらかを欠いた時点で議論や批判をする資格はなくなります。本来、議論はある議題について話し合い、批判はその議題や意見について不十分な点を指摘することであって、意見を述べている人を攻撃することではありません。批判とは議論の一種で中傷とはまったく異なります。では、なぜ、批判と中傷の区別が付かないのでしょうか?

 

反対意見の表明が御法度

言論弾圧のイラスト

  • 批判とは前述のように議題や意見について不十分な点を指摘する行為であって、論者を否定する行為ではありません。批判は議題を指摘するため、その議題について一定以上の知識が求められ、肯定する以上に難しい行為だと考えています。これを単純化すると批判すると賢く見え、さらに相手を打ち負かしているような感覚に陥り承認欲求を満たされた状態になっていると言えます。この考えだけが一人歩きし、何かにつけて批判したがる人が増えます。そうすることで、批判(中傷)コメント書いている自分は賢くて、認められた存在であると勘違いしてしまいます。このような行動に走ってしまう理由は2つあると考えています。それが教育とメディアです。
  • 大半の学校(小学校から高校まで)では自由に議論する場があまり設けられていないように思います。少なくとも僕の行っていた小中高では、そのような時間は非常に少なかったです。学校では、自ら考えるのではなく、教師が生徒に教えることがメインになっていると考えます。例えば、学校の社会の時間に憲法を習い、9条に疑問を抱き、改正すべきだと思うと教師に言えば、「なんて危険な思想の持ち主だ」と言われたり、思われたりするでしょう。つまり、教師の考えと反対の意見を持っていると内申点に影響するという恐怖から生徒が反対意見を言うことをはばかります。独裁国家で行われる言論統制と同じことが起こっていると言えます。そのため、教師の考えに賛同する人はしっかりとした知識と教養を持っている生徒で賛同しない人はならず者で野蛮な人間であるとみなされてしまうリスクがあります。
  • 高校卒業前までに議論することについて教育されて、おらず議論や批判がどのようなものであるかがわからない状態で卒業してしまっています。そのため、批判がどのような行為かわからず、メディアで批判している人の姿を見て、これが批判と思い込んでしまいます。メディアは一種のショーなので、過激になればなるほど面白くなります。それを見て、これが批判をすることと思ってしまいます。お箸の持ち方を親に教えてもらわずに成長すれば、近くにいる人のお箸の持ち方を真似たり、手でそのまま食べたりするのと同じです。本来、教育現場で議論について教育すべきが、教育現場では半ば思想弾圧のようなことが行われ、反対意見を持たせないようにしていると言えます。
  • 大学時代ゼミの先生の授業のアシスタントをしていたときに、「このテーマについて議論してください」と言っても、なかなか議論が始まりません。それは高校時代までの教育で正解のある答え以外言ってはいけないという価値観のせいで、各々が思っていることを言うことができませんでした。そんなときに「間違いも正解もないから自分の意見を自由に言ってみよう」と言うと学生たちは徐々に議論を始めるようになりました。その内容を聞いていて、僕よりもしっかりした意見を持っているなと思うこともあり、感心させられることが多かったです。自分の意見を持っているが、それを外に出すことを教育されていなかったことがひしひしと伝わりました。
  • ヨーロッパでは、小学校時代から議論することが教育プログラムに組み込まれていて、小さなころから自分の意見を持つということを勉強しています。自分がある議題について賛成意見を持とうが、反対意見を持とうが否定されることはなく、なぜ、そのように思うのかが重要視されます。その理由が倫理的でなければ、注意されます。僕もドイツにいたときに通っていた語学学校で自分の意見をドイツ語で述べることを非常に求められました。日本のよう単に習うだけではなく、それについてどう思うのかとよく聞かれました。これは授業だけでなく、友達とのコミュニケーションでも同じで、常に自分の意見が求められます。外国、特にヨーロッパでは自分の意見を持つことが重要ですし、大学生で自分の意見を持っていないと、何のために大学に通っているのかと思われることがあります。拙くても自分の意見を述べると述べないのでは相手の反応がまったく違います。自分がどのような意見を持とうがその意見を持つということは絶対に尊重されます。ある議題に対して反対意見を持っているから、こいつはおかしいと思われることは多くはありません。持っている意見については容赦なく批判されます。

 

しっかりとした議論と批判の方法

学級活動・学活のイラスト

  • 議論はある議題について話し合います。議題は賛成反対の立場のわかりやすいものにするといいです。例えばですが、「学校にスマホを持ち込むべきか」であったり、「在宅勤務を今後も継続すべきか」であったり、前述の憲法9条の改正であったりと賛成反対が分かれやすいものにするのがベストです。そして、賛成か反対かどちらかの立場を選択し、自分の意見を考えます。賛成か反対かも重要ですが、なぜ自分が賛成なのか、なぜ反対なのかについての理由をしっかりと考えなければなりません。これができないと最終的に批判する材料がなくなり、論者に対する人格否定に走ってしまいます。実は大学のレポートや卒業論文で重要視されるのは、なぜ自分がそう思うのかの部分であって、賛成反対の立場ではありません。高校までの教育ではそれが逆でどのような理由であれ、反対の立場を取ることが許されませんでした。例えば「学校にスマホを持ち込むべきか」という議題について、あなたが反対意見を持っていたとします。まず、行うのが学校にスマホを持ち込むべきでないことを表明し、なぜ持ち込むべきでないか理由付けします。学校にスマホを持ち込むことで授業が妨げられるから、スマホを学校に持ち込むべきでないといった具合です。
  • 批判は議題や意見について不十分な点を指摘する行為で、その批判のやり方について書いていこうと思います。批判したい相手の意見について、しっかりと理解することです。そしてその意見の不十分な点について指摘します。それができなければ、先ほどお話ししたコメントのように噛み合わない議論になります。批判でベストな対応は、代案を出すことです。代案を出さない批判は机上の空論だと言ってのけられることがあります。導入すべきだという議題であれば、現状維持も代案と言うことができます。先ほどの例と同様のテーマで、賛成派の理由として「学校にスマホを持ち込むことで、もしものときに連絡が取れる」と言ったとします。それを批判するのであれば、「もしもの時」を犯罪に巻き込まれた時と仮定して、その時に連絡が取れるはずがないと反論したとします。反論にもその理由を付けなければ、意味のなさない言葉になってしまいます。犯人はそのことが外に漏れるのを嫌がるので真っ先に外部と連絡を取れるようなツールを取り上げるか壊すはずで、むしろ助けを求めようとしてスマホを触ろうとする姿は犯人を逆上させてしまい、被害が大きくなってしまう危険性があると理由付けするといった要領です。このときに賛成論者に対して、「人の血が通っていない」や「ゆがんだ倫理観を持っている」と言うと批判ではなく中傷になってしまいます。あくまでも議題や意見に対してだけです。論者は論者として尊重するのが議論の鉄則です。
  • 意見を述べるときに議題からずれるようなことはあまり言わない方がいいです。今回の場合ですと、学校にスマホを持ち込むことで余計なトラブルに巻き込まれることを理由に学校へのスマホ持ち込みに反対したとします。この場合、スマホを学校に持ち込もうが持ち込ままいが、スマホを持っていることで余計なトラブルに巻き込まれる危険があり、それは学校に持ち込むからそのリスクが上がるわけではありません。このように「スマホを学校に持ち込むべきか」から、「スマホを持たせるべきか」に議題がすり替わってしまうことがあります。これはワイドショーなどの政権や行政に対する批判によく見られるよくない例です。議論が白熱すると誰しも気持ち的に高ぶり冷静さを欠いてしまい、本来の議題からそれることがあります。そうならないためにも日ごろからこのようなことに気を付けましょう。
  • 議論や批判は論者を否定するものではなく、論者を尊重しなければなりません。テレビやネットでは、反対意見を述べることは自分と異なる意見を述べた人の人格否定をすることが多いです。否定すべきは論者ではなく、意見です。これを間違えている人が多いです。知識人と呼ばれる人たちでも平気で安倍首相の人格否定を行います。そのような内容のツイートをリツイートやいいねをすると罪に問われる可能性を大阪高裁が示しました。安倍政権の批判については今後のためにもちろんすべきですが、安倍首相への人格否定をするのは批判ではなく中傷です。何かに対する批判も的を射ないような内容ではなく、しっかりと中身のあるものにしなければなりません。それは批判だけでなく、支持する場合にも同様のことが言えます。議論や批判をすることは非常に有意義でいっぱいすべきだと思っていますが、まともな議論や批判でないと横道に逸れたり、人格否定につながったりしてしまいます。議論や批判をするときは相手を尊重する心は忘れないでおきたいですね。

 

最後に

  • 議論をすることで自分の意見をしっかり表明することは非常に重要なことで、これからの時代、特に求められることだと思います。僕は議論や批判の禁止や制限を望んでいるわけではありません。むしろ、我々のような一般人いっぱい議論すべきだと考えています。今回、伝えたいのは議論や批判を間違って理解して相手を貶めるようなことをしないでほしいということです。特に批判では論者の人格を否定するようなことが起こってしまいます。適切な範囲内でしっかりと議論や批判を行ってほしいだけです。
  • 最後に議論するときの姿勢をぜひとも参考にしていただきたい人を紹介して終わろうと思います。それは現在女優として活躍されている深川麻衣さんです。ディベートを経験されている上祐氏や橋下徹さんが出てくると思われた方も多いかと思いますが、深川さんです。深川さんの相手を絶対に否定しない性格から乃木坂46在籍時に「聖母」と呼ばれていました。乃木坂46ファンの間では今でもそのあだ名で呼ばれています。深川さんは相手を絶対に否定をしませんが、相手の言っていることをすべて肯定する人でもありません。相手を尊重しつつ、自分の考えを相手にしっかり伝える人で、一期生のお姉さんメンバーだけでなく、一期生の年少メンバーや二期生も深川さんに支えられていました。深川さんの存在が今の乃木坂46の基礎を作り上げたと言っても過言ではありません。深川さんが相手の意見に賛同できなくとも、その意見を持っているメンバーを否定することなく、賛同できない意見に対してこうした方がいいのではないかと言う人であったと乃木坂46のメンバーが様々なメディアでよく口にしていました。相手を尊重しながら異議を唱えるその姿こそが本来の議論する人の姿ではないかと思いました。深川さんのように相手の意見を尊重しながら、相手の意見に対してはしっかりと批判できるようにする必要があるのではないでしょうか。