坂道は上るもの

乃木坂46についてメインに書いていますが、時折、勉強や旅行や法律問題についても書いています。乃木坂46のファンの行動についても統計分析を行っています。

正義という名の凶器

 

同調圧力のイラスト

はじめに

  • 今年の3月11日にあることが起こりました。それは乃木坂46のメンバーがブログを更新した際に、東日本大震災について触れていないことを理由に一部の人間が非難というよりかは中傷をしました。その当時、4期生のブログは持ち回り制で偶然その日にそのメンバーが当たり、ブログを更新しただけでそのようなことが起こりました。その日は確かに東日本大震災の話題でどこ持ちきりでした。その話題に触れた方が望ましいという風潮はあります。だからと言って、その話題に触れなかったから、中傷していい理由にはなりません。緊急事態宣言の最中に起こった自粛警察というものもこのメンバーへの中傷と同じ原理で行われています。今回はなぜこのようなことが起こるのかについて書いていこうと思います。

 

なぜ、こんなことが起こるのか

  • まず、説明しておきたいことがあります。スイスの教育学者・ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの人間は天使にも悪魔にもなりうる存在であるという言葉です。つまり、人間はちょっとしたことで天使にも悪魔にもなれるということです。人間には醜い部分と綺麗な部分があり、どちらもあるということを自覚して生きていく必要があるというわけです。一番怖いのは、醜い部分がないと思い込み、悪びれることなく他者を中傷する人です。今回はこの人間の醜い部分がどのように作用な働きをするかについて書いていきます。醜い部分があると自覚している人はその部分と向き合い、コントロールしようとします。
  • ある事柄に対して人間は「①望ましい」、「②すべきである」、「③しなければならない」の3段階に分けることがあります。①の段階は親切心で、自発的に行うことが多いです。②の段階では他者からの監視はありませんが、自分の中でルールを決めたmy ruleです。③は他者からの監視や罰則のある状態です。つまり、③は違反や逸脱をすると制裁が下されます。①と②は自己完結型で他者への影響はあまりありません。ストイックな人は②でがっちり固めています。僕もそうなりたいのですが、なかなかできません(笑)。
  • ③に対する考え方や当てはまる事柄が一致していれば問題はありませんが、そこにずれが生じると問題が発生します。法律や規則で定められていることは基準が明確なので、違反や逸脱の基準がわかりやすいです。それに対して、各個人で③に対する考え方や事柄にずれがある場合は、基準が個人の価値観に依存します。つまり、ある人からすれば、問題ないことがある人からすれば問題のあることになってしまいます。各々の価値観によって他者への制裁の基準が変わってしまうことになってしまいます。さらにこの問題を大きくするのが最初に取り上げた自分に醜い部分などないと思い行動している人間です。この2要素が合わさることで自分の正義を振りかざし、他者を弾圧する独裁的な行動に走ります。

 

承認欲求と正当化?

  • 冒頭で取り上げた乃木坂メンバーに対する中傷は、中傷している本人は自らを正義と思い込み、それを相手に強要ではなく、教育していると勘違いしているのです。自分の価値観の強要をあたかも、正論を振りかざし中傷しているにすぎません。中傷は犯罪行為にあたります。人間は他者より優位でありと思う生き物であり、それが自分に向けば努力をし、他者に向けばいじめや誹謗中傷に走ります。中傷している本人は人気者を中傷することで人気のあるメンバーよりも上に立っているという優越感に浸り、あたかも自分の価値観を受け入れさせることで、自分が他者から認められているような感覚に陥ります。ネット上の誹謗中傷の根底は大半のケースが承認欲求を満たしたいだけです。以前に誹謗中傷がどのような犯罪に当たるかについて動画を上げているのそちらもご覧いただけると嬉しいです。

www.youtube.com

https://www.youtube.com/watch?v=rj_WsSsdVnc

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https://www.youtube.com/watch?v=yMr4NmqRFpU&t=3s

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  • 承認欲求を満たすためのツールとして自らの正義を振りかざし、自分の行為を正当化(「しなければならない」)させます。人間は自分の行為に対して理由を求める生き物です。自分の考えと行動が一致しないことを受け入れることができないのです。好きな子にアプローチをするなら、自分から好きな子に何かをするのではなく、自分のために好きな子を動かせば、相手が自分の行動を正当化する過程で自分のことを好きになるのと同じ構図です。つまり、承認欲求を満たすために自らの正義を他者に振りかざし中傷することで、自らの承認欲求を満たすという何とも身勝手な行動原理です。中傷を正当化する過程で「望ましい」から「しなければならない」に自分で勝手に上げています。「しなければならない」という段階に持ち込むことで他者への攻撃を正当化できると考えるようになります。誹謗中傷を行っている人はこの行動原理に見事に当てはまっています。この問題の一番厄介な部分は当の本人が悪いことをしているという自覚がないことです。

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誹謗中傷イメージ



 

緊急事態宣言下での異常行動

  • 緊急事態宣言下で、メディアの報道姿勢に疑問を抱く人が増えた人も多いと思います。テレビメディアはまるで自らが絶対的な正義のような報道をしていました。真偽が確定していない事実を断言するかのように報道したり、自らの主義主張が正しいと信じて疑わないような報道をしたりしていました。テレビ朝日の8時台の番組やTBSの日曜日8時台の番組は自らを正義とし、自らの主義主張に反すれば、容赦なくバッシングし、悪者にしていました。それで、迷惑した医療従事者の方もいらっしゃいます。中傷を禁ずべき立場にあるメディアが中傷をしていたことになります。自らを絶対的な正義として、反対派を絶対的な悪とする一部メディアの姿勢が、緊急事態宣言下で白日の下にさらされました。自らが正義であれば何をしても許されるという理論が自らで成立させて、正義の名の下であれば、中傷には当たらないと考えて行動していると考えられます。メディアが自らを正義と思い込み報道することは非常に偽善的で、松本サリン事件のような虚構を生み出すもとになってしまいます。メディアには自らの行動に対して少し懐疑的であってほしいと思います。
  • 行政からの休業要請が様々なお店に対して出されました。要請に従わず、店を開けているところに自粛警察という形で「休業しろ」というような脅迫めいた貼り紙が話題になりました。まず、行政からの要請なので従うべきではありますが、従わなかったからといって罰則はありません。これが指示や命令になるとそれ相応の罰則が与えられます。自粛警察は正義の味方のような響きをしていますが、偽計業務妨害罪、威力業務妨害罪もしくは建造物等損壊罪に当たる犯罪行為です。休業要請に従わない店を見つけて、店を閉めろと脅迫したり、SNSでつるし上げたりする行為が見られました。通常時であれば、そんなことをする人はいませんが、このような状況だからこそ、自分が正義の味方になって悪を退散しようと思って行動したと考えられます。これを正当化、承認欲求の理論に当てはめたいと思います。
  • まず、正当化(「しなければならない」)は、休業要請に従わなければないという命題が設定されます。この時点で日本語を理解していないことになります。先ほども説明したように要請は従うべきものであって、従わなければならないものではありません。「しなければならない」と思うのは自らが作り上げたものであって、行政からは「すべきである」という命題しか与えられていません。自らの行為を正当化するために段階を勝手に上げていると考えられます。次に、承認欲求についてです。「休業しろ」と言うことで、自分の価値観を押し付けることができます。押しつけをする行為で他者より優位に立ったと錯覚し承認された気分になります。その気持ちが増大し、また他の店を見つけて同じことを繰り返します。SNSでそれら行為を上げる行動はリツイートやいいねの数を増やす意味では承認欲求を満たしていると言えます。今、挙げた行動は誰かのための行動ではなく、行為者の自己満足を越え、自己陶酔になっていると言えます。

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最後に

  • 今回、これらのことを取り上げたのは乃木坂メンバーへの誹謗中傷があったからではなく、コロナ禍での異常行動が気になったからです。「しなければならない」という空気は規律を生み、秩序を保ちます。その甲斐もあって、感染された方や亡くなられた方に対して失礼を承知で申し上げますが、日本は諸外国と比較して非常に感染者数や死者数が少ないです。しかし、この「しなければならない」という空気や価値観は他者を攻撃する口実にもなってしまいます。これに違反したから、「正義の味方がとっ捕まえてやる」と思って行動する人がいるのも事実です。正義の下では中傷が正当化されると思っている人が問題を起こしています。木村花の誹謗中傷はまさしくその典型です。誹謗中傷に正義などはありません。死に追いやるようなことするのは正義という名の凶器で刺しているのと同じです。包丁も使い方を誤れば、凶器です。自らの正義の下では包丁で人を刺しても許されると思っているのと、今回の問題を起こしている人は全く同じです。自らの正義で全て正当化されることはありません。社会倫理に照らし合わせて行動しなければなりません。自らの行動が正しいと思いたくなるのが人間の心理ですが、人間は悪魔にも天使にもなれる生き物であることを忘れずに生きていきましょう。